コラム

第3巻 写真家 井津建郎さん 井津由美子さん

  • 縁のことぶれ

犀川上流のほとり、郊外の閑静な住宅地である金沢市末町。この住宅地の一番山際に建つ、とあるお家があります。敷地裏には山裾を流れる寺津用水脇の遊歩道があり、そこを渡れば竹林にもつながるなど  、自然との距離が近いこの物件を、住居として、そして仕事場としても希望に沿う場所だったと移住を決めたのが、写真家の井津建郎さんと由美子さんです。

長くニューヨークを拠点に活動していた井津さんが金沢を移住先として選んだのは、十数年前に一度、休暇で金沢や温泉街を訪れた時の心地よい体験や印象があったからでした。金沢の街のサイズ、落ち着いた感じ、食べ物も美味しかったといいます。そして金沢は、パートナーである由美子さんと日本で唯一旅行した場所でもありました。

井津建郎 写真集「BHUTAN」から

ここで改めて、井津建郎さんにこれまでの写真家としての経歴をお聞きすることになりました。写真を志した井津さんは、21歳の時に単身ニューヨークに渡ります。なんでも新しいものを吸収するつもりで行ったアメリカ。最初は数年いて、作品をつくり、それを持って日本へ戻るつもりだったといいます。しかし、独立してスタジオを持ち、商業写真としてはジュエリーなどのクライアントワークを熟すなど、海外でも次第に仕事には困らなくなり、ライフワークとして世界中の『聖地』シリーズを撮影する芸術写真にも精力的に取り組んできました。   

ただ、井津さんにはどこかで満たされない、自分が感じていた美の表現がありました。50歳になったある時、アメリカの友人から勧められた英訳の『In Praise of Shadows』を再読する機会を得ます。30年前には心に刺さらなかった日本語の『陰翳礼讃』にも目を通しました。こうした日英の翻訳を通じた読みと自らの経験が交差することで、日本的なものへの憧れだけではなく、表現方法は未だ知らない、自らの底に深く沈んでいた陰翳の美学を再発見することになります。しかし、陰翳を意識した作品は欧米、特にアメリカでは評価を得られませんでした。この評価の背景には、例えば死生観の違いや希薄化も影響していたかもしれないと井津さんは考えます。それでも、こうした社会経済的な逆境に立たされたとしても、この表現を追求して、写真でやっていくのが自分にとって意味のあることだと思い始めたのがこの十数年だったといいます。そしてこれは、文明化がもたらした明るさやモダンデザインの流れに対して、時代に鋭敏な表現者たちがかつて辿った探求への道が、井津さん中でも始まる出来事に他なりませんでした。

こうした自分自身の美の追求による西洋とのズレを自覚しながら、井津さんがアメリカを離れる決断へ向かったのには、当時の政治状況も少なからず関係していました。  井津さんが2021年に金沢に永住帰国をするまでの数年は、2016年の米大統領選挙を発端に世界が混迷を極め、合衆国による政治秩序の崩壊が火を見るより明らかになっていました。特に、パリ協定の離脱に代表されるような自国第一主義や選挙結果の拒否にまで至った民主主義の機能不全を問題視していた井津さんは、このような危うさが罷り通った場所で甘んじて生きるべきではないと考えたといいます。

一方で、確かにあの国は、自分のいる国ではなくなった。だが、たくさんの親友がまだそこにはいる。民意の反映を認めながらも、そこにいる人々がどのような責任を取り、次の4年後をどうするのか。その一つの教訓になっているのではないか。政治がさらなる危機の時代へ揺り戻されようとしている今、そう口にする井津さんに、倫理観と政治的公平を手放さず、議論の中立性、そして格差を生じさせている構造的な矛盾への鋭い眼差しでアメリカを見つめ返す「world citizen(世界市民)」としての姿を見た気がしています。

これがコモン・センスだというのが通じなくなった。それが当たり前となっている、移民の国アメリカ。違いにむしろ安心して、楽しむことのできる自分はまだここにいる。ただ、これからは年齢を重ねていくにつれて、時間も大切にしていきたい。そう思い始めていた井津さんが移住した金沢で、海外生活にはない新鮮さを感じたのが、この末町の家づくりに携わってくれた人々の仕事ぶりでした。

工事が終わって2年も経っているのに、能登半島地震の後、心配して全て点検し直してくれたという工務店の仕事人たち。金額が特別高いということもなく、いわゆるクラフトマンでもない大工だけど、真冬に雪が降りしきる中でも合羽を着て、綺麗な仕事する。この役割を果たすのが自分の仕事だというように。ともすると普通はたたえられない、こうした生活の中で培われてきた感覚と知性を持って、ものづくりに対して誇り高く臨む姿勢が、「ここに来て良かった」と井津さんの心を掴みました。

同時に写真家として、これまで日本を離れていた歳月を取り戻すかのように、工芸といった日本の文化を学び直す機会も求めていました。金沢のように、そうした文化のリソースが身近にある場所では、作品制作にも影響が出てくるようになります。現在は、自らが撮った写真を使いながら、写真家としてコントロールできない額装を地元の表具師にお願いするなどの共作といった交流も生まれています。 

昨年、11月には金沢で初めての個展も開催。テーマにしたのは、その土地の土を焼いたものに、その土地で育った草花を生けて撮影した写真です。まだアメリカにいてコロナ禍だった頃、花も海外からの輸入が途絶え、ローカルなものだけになっていました。それならばと、近所で栽培している人から貰った花や、自分の家に咲いているものを生けて撮影した時に、井津さんは自分の中で非常に腑に落ちる感覚を味わったといいます。それから金沢へ場所を移すと、当然ながら違う花があり、家の裏庭とそこへ行くための遊歩道に咲いている何でもない花や、春になり桜だと気がついた小枝を生けて撮影するようになりました。そして、こうした日常のものを生けていくというコンセプトを意識するようになった極めつきは、友人の持っていた珠洲焼きの壺との出会いでした。しかし、このテーマで個展をしようと思った矢先、能登を震災が襲います。友人の窯元に百もあった珠洲焼きも、わずか十に満たない数しか残りませんでした。

生の儚さ、この「もののあはれ」をいかにして表現するのか。

井津さんは自らを、そこにあるものをドキュメントしていく「フォトグラファー」だといいます。過去に聖地の撮影をするために訪れたカンボジアでは、内戦の負の遺産によって犠牲になる子どもたちを眼の当たりにしました。その時の無力感から湧き出した、「アクションを起こさなければ、自分自身が自分の存在を許せなかった」という怒りと理性への目覚め。それは静かなる情熱として今も井津さんを捉え続けながらも、歳月をかけて慈しみというかたちに削ぎ落とされ、珠洲焼きに生けられた野花の一枚の写真となり、能登の大地やここで生きる者たちへ祈りを捧げています。

文=神野元次郎

井津建郎(いづけんろう)
1949年大阪府生まれ。日本大学芸術学部に学んだ後渡米。以来50年間ニューヨークを拠点として作品制作と発表を続ける。2021年、日本に帰国し、金沢を拠点に活動を再開する。
30数年間にわたってエジプトを始め、ヨーロッパ、中東、アジアの石像遺跡、聖地を14×20インチのカメラで撮影、プラチナプリントによる表現を続ける。1993年にアンコール遺跡撮影のため初めて訪れたカンボジアで、多くの子供たちが地雷の犠牲になっている現実を目の当りにし、非営利団体フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーを設立。カンボジアとラオスに小児病院を建設と運営するなど多くのプロジェクトに携わる。

神野元次郎(じんのげんじろう)
1997年生まれ。金沢美術工芸大学大学院美術工芸研究科芸術学専攻修士課程修了。国立工芸館情報資料室研究補佐員として就業後、現在はフリーライター。専門は、哲学、美術・工芸批評。「すみれハウス」にて、BOOKS & RENTAL SPACE『6号室』主宰。